■河合地区の紹介
「河合の伝説」 【第7話】
『秀吉、河合の地で加古川を渡る!』
今から約400年前、戦国時代の終わりごろのことです。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、三木の別所氏を攻めるため、姫路城から河合の地にやってきました。
秀吉は、目の前に広がる加古川を重臣たちと眺めながら、「やはり、加古川は播磨一の大河じゃ、徒歩で軍馬は渡せそうにない、何かいい案はないか。」
重臣の一人が、「いかだを作り、渡してはいかがでしょうか。」
秀吉は、「それは良い考えじゃ、いかだを作れるものを直ちに探せ、ほうびは思いのままとふれよ。」
「はっ、はあー。」と、家臣たちは、急いでいかだを作れるものを探しました。
数日後、秀吉の前にしんべ村の何人かの百姓がやって来ました。百姓は、秀吉に「わしら、いかだを組んで、ここで荷物を運んでおります。いかだ作りはお手の物です。村のみんなで力を合わせて作ります。」と言いました。
秀吉は、おおいに喜び、「ほうびはいくらでもとらす。急いで作るのじゃ。」と大声で答えました。
村人達は夜を徹していかだをつくり、たくさんのいかだが完成しました。
秀吉は、いかだを作った村人たちに言いました。「いかだ作りごくろうであった。ほうびをとらせるが、何かほしいものはあるか。」
村人たちは、秀吉に「ここで、渡し舟を運航することを許可してほしいのです。」と言いました。
秀吉は、「あいわかった。渡し船の運航を許可し、年貢を免除することにしよう。」と書付(かきつけ)を残し、「また会おう」と笑顔で手をふり、川を渡って行きました。
この渡し舟は、新部町の新宮神社の南東方にあたり、後に秀吉が天下を統一し、太閤(たいこう)という地位にあがったことから「太閤渡し」と呼ばれるようになり、昭和30年頃まで長く続きました。
★バックナンバー★
「河合の伝説」
【第1話】
人々を救った「隠岐のあごなし地蔵」
【第2話】
「帰りたい!」大声で泣いた『泣き石』
【第3話】
「歴史舞台に登場した河合城」
【第4話】
「赤松家を再興した河合の武将たち」
【第5話】
「金鑵城、ついに落城する」
【第6話】
「お姫さまが、泣いて坂をくだる」