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【第3話】

 「歴史舞台に登場した河合城」

 
室町時代のお話です。

 播磨の国を治めていたのは、守護の赤松氏です。
赤松氏は、播磨と備前、美作(岡山県)の三つの国を治めていた大々名で、室町幕府でも有力な地位をしめていました。ちょうど三代目当主の赤松満祐(あかまつみつすけ)の時です。

 将軍足利義教(あしかがよしのり)は、赤松氏の力を弱めるため、その地位を取り上げようとしていました。不安になった赤松満祐は、将軍を京都の自分の屋敷に招き、なんと、その首を取ってしまったのです。
 満祐は、家臣たちに「播磨へ戻ろう!」と言い、将軍の首を持って、現在の新部町にあった河合城へと向かいました。
 
 河合城に入った満祐は、「将軍の首を持ってきてしまった。どこかでとむらわなければいかん。どうすればよいのじゃろう。」 
 満祐は、城代の上月氏や有力な家臣の中村、粟生氏などの諸将を集め相談しました。「葬儀をし、墓をつくればよい。」 「そうだ! 東条谷の安国寺はどうじゃ。将軍家とゆかりの寺じゃ。」 それを聞いた満祐は、「よし、安国寺に首塚をつくろう。城国寺(成国寺)と明善寺の住職に伝えよ!」 河合城の東西にある両寺の住職は急いで準備し、葬儀を行いました。
 
 葬儀は、河合城から安国寺まで、満祐を先頭に家臣たちの長い行列が続いたとのことです。
 
 葬儀の後すぐ、都から伝令がやって来ました。「山名氏を中心とした討伐軍が迫っております。」 
 これを聞いた満祐は、「河合城は、堅固と言えども平地の城じゃ、大軍に攻められれば守りきれまい。」
 
 長い軍議の末、本拠地の城ノ山城(姫路市新宮町)に帰り、討伐軍を迎え撃つことになりました。
 満祐は、馬上から「ものども、戦じゃ!理はわしらにある。」 と、大声で叫び河合城を後にしました。

 これが、世にいう「嘉吉の乱(かきつのらん)」の始まりです。

(注)
このお話は、河合城と歴史的背景などを伝説として紹介するものであり、歴史を忠実に伝えることを目的としたものではありません。
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写真は、第3話にある「安国寺」(兵庫県加東市)
河合地区地域づくり協議会