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写真は、河合屋敷の門(兵庫県小野市粟生町)

河合地区地域づくり協議会
【第4話】

『赤松家を再興した河合の武将たち』

 
室町時代に播磨守護職として播磨を治めていた赤松氏は、赤松満祐の時に六代将軍足利義教(あしかがよしのり)の首をとるという「嘉吉の乱(かきつのらん)」をおこし滅んでしまいます。赤松家の武将たちは、赤松氏の再興を期して落ち延びていきました。
金鑵城城主の中村氏は、当主の正満が戦死したため、息子の小四郎は河合屋敷(現在の粟生町)にかくまわれることになりました。

 ある日のこと、小司郎が武芸の練習をしていると、赤松家の武将たちが屋敷にやってきました。「吉野の南朝から神器を取り戻すことができれば、赤松家の再興を認めるとのことじゃ。」「よし、仲間を集めてすぐに実行にうつそう。」

 河合に隠れていた武将たちが一同に集まりました。「赤松家再興のためじゃ、恐れ多いが吉野の宮へ討ち入ろう。」「では、おのおの役割を決めよう。」と話が続く中、小四郎は襖をあけると、「私も参加させてください。」と頼みました。

一同はびっくりしましたが、「なんと、正満のせがれではないか。りっぱに成人したものじゃ。」「今はお前が中村家の当主じゃ。いっしょにやろうぞ。」と参加を認めてくれました。
役割が決まった武将たちは吉野へ討ち入り、神器を取り戻すことに成功します。

 これが、「長禄の挙(ちょうろくのきょ)」とよばれる出来事で、赤松家の再興のきっかけとなりました。
 赤松氏をついだ赤松政則は、河合屋敷の竹で旗竿をつくり、家臣とともに京都に上って、「応仁の乱」などで戦果をあげ、播磨の守護職へと返り咲きます。

 このことが、河合屋敷の竹で旗竿をつくると戦に勝利できるという言い伝えになりました。
 三木城を攻める羽柴秀吉や関が原合戦に参戦する池田輝政なども勝利を願い、河合屋敷の竹で旗竿をつくったと伝えられています。

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